後藤 貴明。 武雄市の文化財-木造後藤貴明公像
このように、室町時代において後藤氏は隣接する渋江氏領である長島を兼領する勢いを示したのである。
- 永禄4年()、塩田(塩田町)を攻め、領主・を降伏させる
- そして、貴明は龍造寺隆信に実子・晴明を人質に差し出している
- 宗明は源平の争乱に際して、代々源氏と深い関係にあったことから源氏方に立ち、寿永二年(1183)、平家が西国に奔ったとき、武雄神社神主守門とともに太宰府を攻撃した
- なお、に至るまでこの龍造寺の血脈は続く事になる
- 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます
- 永禄4年()、塩田(塩田町)を攻め、領主・を降伏させる
- 同年8月には和議に従っての先鋒として須古城のを攻めるが失敗
- いや、世間が言うにはどーも 「石橋とゴクミって付き合ってたよね」とのことらしいですね
- 慶長6年()、鍋島氏の他、(諫早、武雄、多久、須古)にもへの人質の差し出しが求められるの制度が導入され、翌年、家信は三男・を江戸に送っている
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- しかし、後藤貴明は須古城攻めや大村以外での戦闘が続き、結果的には大村純忠の息の根を止めることはできなかった
- 132• 章明の子資茂は源義家・為義に仕えて各地を転戦し、元永年中(1118~20)にはじめて墓崎に下向したといわれる
- 後藤氏は、鎮守府将軍藤原利仁の五代の孫公則が肥後守に任ぜられ、肥後の藤原から後藤氏を名乗ったのが始まりという
- このとき、後藤貴明は敵対していた竜造寺隆信に援軍を依頼したため、龍造寺の兵が到着すると惟明は平戸に逃げ帰った
- 1577年2月、再度、和議が成立しますが、後藤貴明の実子・後藤晴明は龍造寺隆信に養子となっては龍造寺家均となります
- これはもう、交際を認めちゃっていますよね・・・
- 8cm、寄木造りで玉眼、彩色が施されています
- この謀略によって龍造寺一門は壊滅し、龍造寺剛忠入道は筑後に逃れた
- 塚崎荘の後藤氏は菊池氏征伐の勲功によって、鳥栖神辺荘の地頭職に補任されている
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[経歴] 貴明は大村純前の庶子であったが、有馬晴純の子 大村純忠 が大村氏の跡継ぎになるに及び、天文14年 1545年 、後藤氏に養子に出された。
すなわち、建保六年(1218)の源披所領譲状案に「治承年中(1177~81)…墓崎地頭宗明」と見え、医王寺の薬師如来像の背面に「藤原宗明」の承安二年(1172)の像造銘が残されている。
東北平泉におけるの戦功により武雄の地を与えられたといわれ、末期以降、代々武雄の地を領してきた。
延元二年(1337)菊池氏の拳兵によって探題が軍勢を集めたとき、武雄神社に出兵を要請した古文書が残ることから、武雄地方の御家人も探題方についたのであろう。
115• 坂戸は河内国にあり、公則は河内守にも任ぜられ、章明の祖父則経も河内守であったことから、後藤氏は河内国と関係を持ち、ついには土着して在地豪族化していったものと思われる。
姉がいる? 後藤久美子さんは実は、 お姉さんとお兄さんがいるんですね~。
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